
発生時刻 | 2020年04月18日 17時26分頃 | |
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震源地 | 小笠原諸島西方沖 | |
最大震度 | 震度4 | |
位置 | 緯度 | 北緯 27.2度 |
経度 | 東経 140.7度 | |
震源 | マグニチュード | M6.9 |
深さ | 約490km |
最近は全体に曇り空が多くて地震雲を見極めるのが難しいが
用心に越したことはない・・地震が多くなりつつあります。

希望と混乱と 災害と悲劇
世界が戦火にまみれんばかりの様相を呈した平成
それでも人間は 知恵をしぼり 努力を惜しまず 今日を迎えた
平成への想いは 一言では語れない
最期にことばにすれば
ただ、ありがとう
https://www.tougakuin.jp/ 神木山 等覚院

良い日に墓参りが出来ました
祈りが捧げられているようです
お花がきれいです
中の美しい金色の仏様の近くに行けたなんて
うらやましい!
両側を参拝者たちが今か今かと待っていました
先導する御坊様の後からは、いなせな兄さんたちの纏回しが付いてゆきます




参拝者は手を合わせてお迎えします
主人の体調を考えて帰路につきました
お天気も桜も今日が一番最高だと言えるような
素晴らしい日でありました
本堂の前で甘茶をいただき名残惜しく車に乗り込みました
素晴らしい墓参、素晴らしいお祭り、素晴らしい桜
良い一日をありがとう
その風が今日の午後から吹いてきた、洗濯ものが飛ばされそうで急いで取り込む
桜が散り始めてきたので急いでカメラを提げて庭に出た
満開を迎える前に終わりそうな予感
人間が枝を切るので、こんな姿になった
都会のさくらは自由に枝を伸ばせない、道路際の桜は車の邪魔になるので
時々その枝をバッサリと切る・・・・・可哀そうだが事故予防だ
本当に今年は花が少ない
春の日差しにその大木の影を落としているが枝振りがおかしい
この桜は樹齢40年近くになるはずだ
その辺から桜は弱ると以前知った
かわいそうだ
今はその枝が枯れ落ちて事故につながらないように見守る
駅前のソメイヨシノは最近抜かれている
ソメイヨシノからほかの種類の桜にするらしい
ソメイヨシノは大きくなり根を張るのでいろいろ障害が起きる
わがマンションの桜も、いずれは同じ運命をたどるのか・・・




これはすごい! この考えに行きつく者を尊敬する
☆ヤフー知恵袋より
え〜っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません
弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません
虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています
自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です
個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです
種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)
そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです
必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り
「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです
そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです
10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります
「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります
人間の生存戦略は、、、、「社会性」
高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる”弱者”です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です
どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の”弱者”を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)
「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です
遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです
(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)
アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです
その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです
だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです
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